日本における統計のルーツは明治時代初期にさかのぼります。日本で今日のように統計が広く普及するようになった背景には、明治の先人たちの優れた先見性と多大な努力がありました。日本の統計の始まりに多大な貢献をしたのが、杉亨二です。杉亨二は、明治政府に設けられた統計部署の初代の長を務めたほか、統計の普及・発達に大きな貢献をしました。このコーナーでは、杉亨二の足跡を紹介します。
杉亨二について
杉亨二(すぎこうじ)は、初代統計局長と称されています。それは、明治4年(1871)12月24日太政官正院に設置されたとされる政表課(総務省統計局・統計センターの前身)担当の大主記に命じられたことによります。 杉亨二は、明治維新後の我が国の近代化において人口調査の必要性を説き、明治12年には国勢調査の試験調査ともいうべき「甲斐国現在人別調」を実施したことで有名ですが、同時に我が国の統計学の開拓者、近代的統計調査の先駆者、そして統計教育の先覚者でもありました。 現在、我が国の統計が国際的に非常に高い評価を得るようになったのも、杉亨二の卓越した先見性と行動力に負うところが大きいと言えます。 |
杉亨二が統計を志した動機
杉亨二は、統計を志すようになった動機について、自叙伝で、『開成所で翻訳して居る内に、いつで有たか覚えて居無いが、何でもセバストポール戦争後で、千八百五十五、六年の頃かと思ふが、バイエルンの教育のことを書いたものが有た、それに、百人の中で読み、書きの出来る者が何人、出来ぬ者が何人と云ふことが書いてあつた、其時に斯う云ふ調は日本にも入用な者であらうと云ふことを深く感じた、是れが余のスタチスチックに考を起した種子になつたのである・・・略。
若年の頃より折角人間に生まれた上は、人のすることは人がする、どうか人の為ぬことを仕て置きたいと云ふ一念は何処やら心に存して居た、是れが余の心にスタチスチックの種を蒔いた様に覚える』と語っています。
日本政表等の刊行
明治4年9月20日、太政官に出仕を命じられ、同年12月24日付けで正院の大主記となり「日本政表」の編成などに当たりました。 「日本政表」は、我が国の最初の総合統計書で、現在の「日本統計年鑑」の前身に当たります。明治5年4月に「辛未政表」(明治4年の分)、同7年9月に「壬申政表」(明治5年の分)と題して刊行されました。 以後、「明治6年政表」、「明治7年政表」として刊行され、明治8年以降の分は単に「日本政表」と題して、明治11年分まで毎年刊行されました。 その他、「海外貿易表」の作成、「日本府県民費表」の編集、「交易通史」、「国政党派論」の翻訳なども行いました。 |
駿河国人別調の実施
明治維新に際し、杉亨二は徳川家に随行して駿河に移りました。ここで沼津奉行の阿部國之助、静岡奉行の中臺伸太郎に献策して、明治2年(1869)に家別票(「世帯票」)を用いた「駿河国人別調」(人口調査)を実施しましたが、藩の重役による『封土人民奉還の後であるから朝廷で為さらぬ事に当藩で斯様な調べをするのは宜く無い』という妨害があって中止のやむなきに至りました。
その結果、調査対象が少なかった沼津と原の分だけが集計されました。
統計家の養成と国勢調査への情熱
杉亨二は、統計は早晩我が国でも発達していくであろう、また発達せねばならないと信じ、そのため専門家の養成が必要である旨を太政官の中村書記官長に具申し、統計家養成のため高橋二郎、寺田勇吉、宇川盛三郎、呉文聰、小川為次郎、岡松徑などの有能な職員を政表課に集め、課務を行うとともにスタチスチック(統計)の書籍を勉強しました。これを実務に応用しようということになって、全国総人員の現在調査(「国勢調査」のこと)を計画しました。
その間の経緯を自叙伝では、『是に於て余は多年の宿志を遂げんと、大胆にもスタチスチックの大目的たる、全国総人員の現在調査を行はんことを心掛けた、古来、我国に於て此の現在人別の調査は未だ曾て施行せしことを聞かず・・・略』とあります。
国勢調査実現への運動
明治18年12月太政官が廃止され、内閣制度が発足したことにより統計院(政表課を基に明治14年設置)は内閣統計局となった。これを機会に杉亨二は官界から引退しました。
その後は、スタチスチック社(のち統計学社)等において、後進の指導に努めるとともに、統計の普及、第1回国勢調査実現の運動に尽力しました。
甲斐国現在人別調の実施
「現在人別調の調査は根本である。国家必要なる事である」として全国総人員の現在調査を計画し、その実施の前に、具体的な実施方法、調査の問題点、調査経費等の大体の目途を知るため、甲斐国(山梨県)を実施調査することとしました。 甲斐国を選んだ理由は、次の通りでした。 1) 人口の規模が適当である 調査は、明治12年12月31日午後12時現在で、甲斐国(山梨県)に住んでいる人を対象に実施しました。
|
表記学社および製表社の設立
明治9年(1876)2月 杉亨二は、統計学研究のため政表課員を始めとする有志10余名を集めて「表記学社」(明治11年「スタチスチック社」、同25年「統計学社」と改名)を創設しました。
また、明治11年12月小幡篤次郎ら15名と「製表社」を創設し、翌12年には渡辺洪基らと合流して「統計協会」(明治14年「東京統計協会」と改名)を設立しました。
この統計学社と東京統計協会は、その後永らく統計学術の普及発達に寄与しました。一般財団法人 日本統計協会はこれらの流れを汲むものです。
共立統計学校の創設と統計専門家の養成
杉亨二は、『人命は短うして事業は永久なり、既に老い、日暮れて路遠ければ、学校を設立して数百名の学生を教養せんと欲し、此事を鳥尾院長に謀りしに・・・』と、当時統計院の院長であった鳥尾小弥太院長と相談の上、統計院から政府に統計学教授所設置に関する上申書を出しました。しかし、これが不許可になったので、杉亨二ら統計院の職員有志が発起人となって、明治16年9月に東京九段下に共立統計学校を開校し、自ら教授長となって統計専門家の養成に当たりました。
「統計」という日本語訳が、本来の意味を表現していないとして、自ら漢字を創作して使用しました。 本協会の月刊誌「統計」には同名のコラムページを設けています。 |
杉亨二の墓所
杉亨二は、大正9年(1920)の第1回国勢調査実施を見ることなく大正6年12月4日90歳で永眠しました。
墓所は東京都豊島区の染井霊園内にあり、自然石に辞世の句「枯れたれば また植置けよ 我が庵」が刻まれています。
また、墓所には平成3年(1991)に、総務省統計局・統計センターの創設120年を記念して「日本近代統計の祖 初代統計局長 杉亨二」の碑が遺族の了解を得て建てられました。
年譜
年月日 | 歳 | 事項 | ||
---|---|---|---|---|
文政 | 11年(1828) | 8月2日 | 1 | 長崎市本籠町に生まれる 名は「純道」 |
天保 | 8年(1837) | 10 | 既に父母を亡くし、上野舶来店(時計師上野俊之丞)に奉公する | |
弘化 | 2年(1845) | 18 | 大村藩医村田徹斎の書生となる | |
嘉永 | 2年(1849) | 22 | 大阪の緒方洪庵の「適々斎塾」に入る 脚気のため帰国。再び村田徹斎の書生となる |
|
3年(1850) | 2月 | 23 | 江戸に出る | |
4年(1851) | 24 | 永代橋の信州松代藩村上英俊を手伝って、仏蘭西字書蘭仏対訳「ハルマ」を編集 | ||
5年(1852) | 25 | 杉田成卿の門に入る | ||
6年(1853) | 26 | 築地奥平邸で蘭学を教える 深川の館林藩医立花正甫の家に仮寓 勝海舟を知り、その私塾長となる ペルリ来日と同じころ、紀州附家老水野土佐守家屋敷内の丹鶴書院で蘭学を教える |
||
安政 | 2年(1855) | 28 | 老中阿部正弘に仕える | |
3年(1856) | 29 | 福山藩石川和介の媒酌で阿部家側役中林勘之助の妹「きん」と結婚 | ||
万延 | 元年(1860) | 1月29日 | 33 | 藩書調所教授手伝となる |
元治 | 元年(1864) | 8月11日 | 37 | 開成所教授となる |
慶応 | 元年(1865) | 38 | 「亨二」と改名 | |
明治 | 元年(1868) | 12月 | 41 | 駿河国に移り徳川家教授方となる |
2年(1869) | 42 | 「駿河国人別調」実施 | ||
3年(1870) | 7月11日 | 43 | 民部省出仕命じられる | |
4年(1871) | 9月9日 | 44 | 民部省出仕免じられる | |
12月24日 | 太政官正院大主記となる | |||
5年(1872) | 4月 | 45 | 日本政表第一巻「辛未政表」刊行 | |
7年(1874) | 9月 | 47 | 「壬申政表」刊行 | |
9年(1876) | 2月11日 | 49 | 有志と「表記学社」(のち「スタチスチック社」、「統計学社」と改名)を創設 | |
5月23日 | 正六位となる | |||
10年(1877) | 1月18日 | 50 | 権大書記官となる | |
11年(1878) | 12月18日 | 51 | 有志と「製表社」(のち「統計協会」、「東京統計協会」と改名)を創設 | |
12年(1879) | 12月31日 | 52 | 「甲斐国現在人別調」実施 | |
14年(1881) | 6月22日 | 54 | 統計院大書記官となる | |
15年(1882) | 12月29日 | 55 | 勲五等となり、雙光旭日章を受ける | |
18年(1855) | 12月28日 | 58 | 官界を引退 | |
21年(1888) | 12月28日 | 61 | 正五位となる | |
35年(1902) | 8月15日 | 75 | 杉先生講演集刊行 | |
12月15日 | 勲三等となり瑞宝章を受ける | |||
36年(1903) | 1月26日 | 76 | 法学博士の学位を受ける | |
43年(1910) | 5月27日 | 83 | 国勢調査準備委員会委員となる | |
大正 | 4年(1915) | 10月9日 | 88 | 米寿宴を不忍池畔笑福亭に開き自叙伝を作る |
11月10日 | 勲二等となり瑞宝章を受ける | |||
6年(1917) | 12月4日 | 90 | 午後6時永眠(従四位となる) |
※明治4年以前は太陰暦であるが、西暦の年号は単純に読み替えたものを参考として表記した。